昭和四十三年十二月十九日 朝の御理解
御理解第九十五節
「世には神を売って食う者が多いが此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」
この九十五節をこのところ説きようがない程思います。金光様の御信心の看板と言うても良い位の御理解ですからね。おかげがなからなければ拝んであげないとお供えもしなければ御取次もしてあげないと云った事のないのがこの信心。又の御理解にお供え物とおかげは付物ではないと仰っておられます。これはまさしく取次者に対する御理解でございましょう。御祈祷料御祈念料といったものを取ったりしないのがお道の建前であり看板なのです。
ところがこれは教師に対する取次者に対する御理解でしょうけど、これを一般の者が信心者が頂いてみますと、先日古川先生のお話を頂きますと、教祖様の御裁伝と云うものが残されていて、御裁伝と云うのは神様の前に直直み教えが出る、昨日も御裁伝の事をお話になっておられましたですね。
お金を借りたら三日前に返す心持ちになれよと云った様な事、あれは御裁伝ですね。神は信者にものは頼まんとこう仰る。おかげを受けた者が道を立てて行けと云う意味の御裁伝の言葉が聞かせて頂きます。おかげを受けた者が道を立てて行く。金光様の御信心はこれなのです。
取次者が拝み料祈念祈祷料と取るのでもない。定価が定められている訳でもない。けれどもそういう例が世の中には幾らもあります。いわゆる拝み料、神社仏閣なんかそれが多い。結婚式でもお願いしますと一級二級三級と云う様に一千円二千円と違うようですね。それはけんたいにそれだけの金を取って ・・・
ここ辺りの場合は御礼が一万円であっても良い代わりに又はこんなわけですからと言えばちゃんとここでお供えも揃えて、 心配しなさんな、結婚式はさせて頂きましょうと云う様な結婚式もあるのです。だからそのきりがないのです。
おかげを受けた者が道を立てて行くのです。そこでおかげを受けた者が道を立てて行かないと云うとちょっと問題があるのです。
金光教の信心はそういう心持ちになれと云うこと。借金をしたならば三日前に返すぞと、返させて下さいと云う心持ちになること。返されなくてもよい、そういう心持ちになればおかげになる。私共がおかげを受けて道を立てさせて頂こうと云う心持ちになればおかげが受けられる。
例えばみ教えに今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあると、この和賀心にありと云うことが昨日から今日に 和賀心と云うのはそういう心持ち、借金をさせて頂いたら何時何時迄に払いますと言って借りるのだから、何時何時までに払えばよいと云った様なことでなく、けども三日前に払わせて頂くという心持ちが既に和賀心なのです。
おかげを受けたら受けた者が道を立てて行く。おかげを受けっぱなしじゃない、受け取りじゃない。受けたら道を立てて行く。神様が頼みなさらん、そういう心持ちになると云うことがおかげを受けることである。又それが和賀心に繋がることである。
昨日はさ期せずして幾人も子供が産まれたからと云ってお名前を頂きに来た。上滝さんところが二番目の孫が生まれた。お名前を頂きたい。松岡さんところも二番目の息子、息子ばっかりお名前を頂きたい。信心が分からんから仕方が無いけれどもお名前だけを頂きに来るとは、これは私は九十五節商法にしてはならぬと云うけれども、商法にしておる様なもの。御利益だけを願う、段々そこのところを金光様の信心はそうでない。上滝さんのところでもそうです。お母さんの具合いが悪い。長男の泉さんは参って来んのです。それに依って信心の稽古をしようとしない。松岡さんでもそうです。初めの子供もここでお名前を頂いた。だからうちに子供が生まれたら先生にお名前を付けて頂くと親先生に帰依している。帰依していることは有難い。けどもその帰依しているだけではいけない。何時生まれたのかと云うたら十二日に生まれました。そして今日は何日だねと言うと自分で計算して今日は十八日です、ほう十八日生まれたのは十二日、成程名前をつけるのは一週間以内だからそれでよかろうばてん、それじゃあ神様が喜びなさらんと昨日私は言いやしません。折角よかお名前頂いてお父さんが悦に入っている時ですのでいつか聞いて頂かにゃならんと思っているのですけど一事が万事なのです。十二日に生まれたならなぜ十三日に御礼に出て来んか、おかげで安産のおかげを頂きましたと。そしてお名前を頂きたいと言うのなら道が立つ。道を立てよらん。おかげを受けた者が道を立てて行かないかん。先ず御礼の方が大事なのです。お名前を付けて頂いたときお名前を付けて頂いた料をお供えすりゃこれやったら取引と同じ事じゃないか。お名前を付けて頂くだけなら何処の易者姓名学の大家のところで息子が生まれたからお名前を付けて下さいと、付けて頂いた、いくらですか、一千円です、もうこりゃ取引です、商法です。
息子が生まれました、お名前を頂いた、こりゃ御礼ですお初穂、ひょっとすると金光様で名前を付けて貰う方が安か、これでは信者側の方から云う商法のようなものです。商売のようなものです。それは分からんから仕方が無い。けれども信心させて頂く者はそこんとこ分からせて頂く。おかげを頂いた者が道を立てて行かねばならんのじゃないか。おかげを頂きましたと云うてお願いに慌てて行くのであるから御礼にも慌てて出て来る様な心持ち、そういう心持ちにならにゃおかげにならん。おかげ頂きまして有難うございましたと御礼が先に出来てそれが早く出来て次にお名前を頂きたいとそこに神様を信じ神様に帰依している、金光様に帰依しておる者の信心。おかげを受けた者が道を立てて行く姿がそこにあるのです。
天に任せよ地に縋れよと云ったみ教えがある。これなんかはやはりお縋りお任せ、その事は神様にお任せして一心に縋ってゆく、お願いしてゆく。お願いと云うことにはやはり御利益を目指す目的のこともある。縋ると云う事は先ずそうです。けれども天に任せ地に縋らせて頂くと云う事もです、只今申します様にそういう心持ちにならせて頂くことを縋る ここでは天に任せよ地に縋れよと、天に任せると云う事そこに私は和賀心を感じる。
ですからこれがもし天に任せず只じだんだ踏んで只ガムシャラにお縋りすると云うだけでは今日の九十五節から云うと、これは信者側から言うと、ここでは神を商法にしてはならぬと云う事をお金で拝んではならぬ、神様を銭金で拝まぬと云う事でしょうけど、信者側から言うとやはり只縋ると云うところだけでは道の立ちようがない。神様に任せ縋らなければならない。その任せると云うところに和賀心がある。もう私はどうにも出来ない。だから貴方に任せるしかないとして地に縋る。金光様の信心、いわゆるおかげの世界と云うものはそういうところから開けて来る。
昨日久留米の井上さんところの霊祭がございました。弐年祭あちらでお祭りを終らせて頂いてから一口お話を聞いて頂いたことでございますが、思いが形式に表れて来ないとお祭りにならない。そこでこの様に小さな鯛よりも大きな鯛でなからにゃいかんと私は云うお供えをするのにそれは銘々、井上さんなら井上さんなりのいっぱいの形式を形に表して行かねばいけない。もうそげんすることはいらんですよ、まあ心で仕えよるとですけん、お直会もそう念入れんでよかですよ、もう神様の方だけしときゃ、お直会だって神様の方だって思いを形式に表さにゃいけん。ところが思いなしに形式だけになってはおかげは受けられない。金光様の御信心は何処までも思いとか心とか伴っていなければいけない。
そこで例えばこの様なお祭りをさせて頂くことが霊様が喜んで下さり神様が喜んで下さることを信じてこのお祭りが奉仕されねばいけない。云うならば御礼でもやはり神様に対する御礼でも先生に対する御礼でも井上さんところの思いが形に表されなければいけない。 例えば御礼だけを要求するなら神様を商法に使っとる。けれども霊様が喜んで下さり神様も喜んで下さり井上さん自身もそれを形式に表して行くことが神様も喜んで下さり霊様の位も一段と進めて頂くことが出来るのだと信じてそれが為されるところに金光様の御信心がある。
只金をかけよ金をかけよじゃない。そこを信じて形式に表していく。例えて云うならば、お茶席ならばお茶席に招ばれて行く。普段着じゃ行くまいが、やっぱり茶席に臨ませて頂く服装に改めて行かねばいくまいが。これだけの形式のお祭りをしているから、御霊様もやっぱりきちっとした、分かりやすく云うならば紋付袴をつけた様な感じで御霊様もこのお祭りを受けられておられるのじゃ。そうしないとお祭りにならない。そんならこちら側もそうでなければならない。茶席に入らせて頂くときに普段着じゃもうその雰囲気すらも崩れてしまう。やっぱり形だけでも普段着じゃいけない。よそゆき着を着て場合によっちゃ紋付の一つも袴の一つも着らないけない。形式のその形式がものを言う。それでも又形式だけではいけない。こりゃまた往々のして仏教信者さんの中には殆どがそうだと思う。今日は週年忌御法事親戚も形式的に饅頭作っていかなこて、餅どんついてゆかなこて、招ぶ方もお膳の一つも作って引物の一つもつけとかなならん。形式なんです、そして仏様も喜ばしゃったろうぐらいでいっちょん出来る筈はない。そこに金光様の信心の全然、如何にも商法にしてはならぬと仰るのにそんなこと言うなら商法と同じじゃないかと言う様なことを昨日井上さんとこで言うてきた。けれども私が言うてきた事は商法ではない。霊様も助からっしゃらなならぬ。井上さんもお祭りを境におかげを受けにゃならん。神様も喜んで頂かにゃならん。そこに信心で為されるところに五寸の鯛より一尺の鯛の方が良いと私が言う。
とにかく昨日は魚屋に鯛と云う鯛が無かったらしい。もう半ば諦めかけておった。それを井上さんの姉さんが大きな鯛を探してきた。それなんです。もうこちらの思いは通じとろうけんではいけない。その思いが形に表されなければいけない。それを商法じゃないかと云う様になりますけれどもそうじゃない。私が言うのはその向こうにおかげが伴う為に形が伴わなければいけない。
松岡さんの例だって同じ事。これが普通商法でしている信心ならです、そりゃ生まれた時は御礼は言わんでも御礼に出て来んでも問題はなか。只お名前を付けて頂いて料金払うて、よか名前頂いたと帰りゃそれでいいんだけれども、それでは商法と同じ事だと、取引だと。今朝ここから皆さんに聞いて頂いて松岡さんにも聞いて頂きたいことはそこなんだ。もう一人目じゃない、二人目の子供を頂いた。信心もお父さんの方の信心を通して少しは分かって貰わにゃならん。それにはお名前を頂きに来るとだけは商法だけれども、生まれましたおかげを頂いてと御礼に出て来る、そこからお名前を頂く。こう云う風になって来るとそれはおかげを受けて、おかげを受けた者が道を立てて行くと云うことになる。
この九十五節はもう何回も頂いている御理解ですからもう説明も加えようもない程にこれは金光様の、云うならばこういう生き方こそが金光様の看板の様にあるけれども、このみ教えをもういっちょこれを信者側の方から頂いてみたい。又は裏の方から頂いてみるとです、如何にも商法の様であって商法でないと云うところを今日は聞いて頂いたのです。どうぞ。